本のかびくさい臭いが鼻につんとくる。
この本はもう寿命が来たかしら。
そんなことをぼんやり考えながらも、その本の背表紙にセロハンテープを貼り付ける。
これでもう少しはもつだろう。
寿命がきたとしても捨てたくはない。
「よ。」
極端に短い挨拶をよこしてきたのは、鍛冶見習いのグレイだ。
顔を上げなくてもわかる。
だって、どんなに無口なドクターでも挨拶はもう少し長いもの。
「いらっしゃい。」
そのまま顔を上げもせず言葉を返す。
相手もそれで満足したようで、適当にその辺の本を物色し始めた。
そういえば、この間薦めた本はすでに読み終わったと言っていた。
感想を聞いたら瞳をきらきらさせて、
何ページの誰々がどうだとか、どこそこの表現がどうだったとか、息のつく間もなく話しはじめた。
普段そんなに喋らない彼がそこまで饒舌になるのだから、あの本を薦めて良かったとほっとしたものだ。
「……ところで何やってんだ?」
グレイはふと私の作業に興味を覚えたようだ。
そこで私はやっと顔を上げた。
「本の手入れよ。」
「手伝おうか?」
彼の申し出はありがたかったけれど。
せっかくここへ来てもらっているのだから、手伝ってもらうより本を読んでほしいので謹んで断る。
「そんなのいいわよ。ゆっくり本を読んでいて。」
私がそう言うと、彼の予想の内だったらしく、大して驚きもせず頷いた。
「そうか。……それにしても古臭い本だなぁ。」
グレイは私の手元にある本を見て言った。
対して私は微笑んで、その本の表紙をそっと撫でた。
「でしょう。ずっと昔のこの町のことを記録している大切な本よ。」
「どうりで。でも今にも壊れそうだぞ。他に書き写して捨てちまえばいいんじゃないか?」
彼の言葉にはぐさりとくるものがあった。
私は少し苦い顔をする。
「……まだ、大丈夫。」
「そうか?」
「そうよ」
捨てたくないの。
それがどんなに馬鹿らしい執着であったとしても。
これ以上愛せるものはきっと、この世にはないんじゃないのかと思うほど。
愛しい本たち。
誰かに読まれたくてうずうずしている。
空気が、雰囲気が、匂いが、それを訴えてくる。
「まだ読めるもの」
私がうっとりとして呟くと、そう、と短い答えが返ってきた。
ふと顔を上げる。
彼は難しい顔していた。
「……どうしたの。」
「何が。」
「そんな顔してるから。」
「え?どんな?」
難しい顔、が一変してハトが豆鉄砲を食らったような顔になった。
私は悪いと思いつつくすくすと笑ってしまって。
「さっき、すっごく難しい顔をしていたわ。何か重大な問題を抱えて悩んでいるような。」
「いいや。そんな大げさなもんじゃない。」
「……悩み事があるのね?」
「…………ああ。」
「良かったら相談にのるよ。」
「いや、別に……。」
「そう。」
言いたくないのなら言わなくていい。
そんな考えの下私は頷いたんだけど、彼はさっきよりも、もっと難しい顔をしていた。
「…グレイ?」
「何?」
「もう帰って寝たら?疲れてるんじゃない?」
「いいや。そう見える?」
「見えるわ。」
「そっか…。んじゃ、帰るよ。」
「そう。また来てね。」
「ああ。」
グレイが帰ろうとして出入り口のドアを開くと、少し驚いたようながいた。
「!」
「あ、さん…。」
「グレイくんかぁ…。び、びっくりした…。」
はグレイを見ると、ほっとしたような顔で胸に手を当てて溜息をついた。
私はにっこりと笑って彼女に挨拶をした。
「こんにちは、。」
「マリー、こんにちは。」
「そんなに驚いて、どうしたの?」
「ドア開けようとしたら勝手に開いてさ!すっごい驚いてたらグレイくんだったよ!」
いつ自動ドアになったのかって疑問に思ったくらい驚いたよ!
の言葉に私はくすくすと笑ってしまって。
ちら、とグレイを見ると帽子を深く被っているけど耳が真っ赤になっているのが見えた。
私はそれには気付かない振りをする。
「そう、それは驚くわね。」
「ね!…て、ごめんごめん、グレイくんの邪魔だったかな。」
「あ…いや…。」
が図書館の出入り口を塞ぐように立っていたためにグレイは帰るタイミングを逃していた。
それに気付いた彼女は慌ててどけたが彼は軽く頭を下げただけだった。
「ん?でも帰るのいつもより早いよね?」
彼女が首を傾げて問うがグレイは視線を逸らしただけで精一杯のようだったので、かわりに私が答えた。
「ああ、グレイね、ちょっと具合悪いみたいだったから。」
「うそ、大丈夫?あ、だったらドクターに見てもらったら?」
が彼の顔を覗き込む。
彼はもっと顔を赤くさせて首を横に振った。
垣間見えたグレイの顔は赤く染まっているのに表情に何か痛々しいものを見つけたような気がして。
「…大丈夫だから。じゃ…。」
そう言ってグレイは足早にその場を去った。
は彼の背中を見送るかたちで見ていたが、くる、と向きを変えて図書館に入ってきた。
「今日のグレイはいつもと違うね。」
「そうね。」
私はその理由を知っていたがあえて何も言わずに頷いて話題を変えた。
「ところで、ダンナさんとはどうなの。」
「あ、うん…あのね…」
彼女は俯き加減に頬を染めて、至極幸せそうにゆるゆると微笑んだ。
私は本のかびくさい臭いを嗅ぎながら手入れする手を休めずに彼女の話を聞く。
あら、この本もう寿命がきたかしら。
でも大丈夫よね、まだ大丈夫。
ボロボロになった古い本の背表紙に、セロハンテープを慎重に貼り付けて。
ふとグレイの難しそうな横顔が脳裏に浮かぶ。
の話は終わらない。
彼女の左手の薬指の、まろみのある指輪が鋭く光った。
end.